これからの教育

今年、教員免許状の更新講習を受けています。現在30時間のうち24時間まで受けました。

昨日は「アクティブ・ラーニングの理論と実践」という講義を受けました。終始講義スタイルだったので疲れましたが、これがかなり勉強になりました。

いろいろ話はありましたが、肝としては我々が子供の頃に受けていた教育=一斉型詰込み教育は、教育の歴史から見ると極めて稀なスタイルで、それは高度経済成長期の世の中が必要としたものであった、ということです。

どういうことかというと、どこもかしこも工場の労働者を必要とし、工場の労働者は基本的な知識を必要としていた。その基本的な知識を教えるためには、一斉型の知識のみを詰め込む教育が必要であったということで、欧米諸国から始まり、日本もそれに倣ったというのです。

詰込み教育では答えだけ知っていればよく、「なぜ」を考える必要がない。一問一答式の知識だけあればよい、というのが基本です。確かに我々が受験時に覚えた年号や元素記号、地名などはほとんど忘れてしまいましたよね。ミトコンドリア、ゴルジ体などは知らなくても生きていけるわけです。

しかし、インターネットが普及した今、それらを暗記する必要があるでしょうか?忘れたらスマホでサクっと調べればすぐに出て来るわけです。ミトコンドリアやゴルジ体を記憶しておく必要が、今の時代にはないということです。世界的に工業中心、産業中心の世の中になる前の教育にも、そういう画一的な知識を暗記する必要がなかったので、教育はもっと自由なものであったようです。つまり、我々が受けて来た教育だけが、教育史の中で見ると、特殊で変わった教育であったということなのです。

では今何が必要とされているのか。それらの知識=情報をいかに活用するかということにより重きが置かれているというわけです。答えを覚える必要がない。逆に決められた答えのない問題解決ができる力が必要とされているというわけです。

前振りが長くなりましたが、答えのない学び、これを進めるとはどういうことか。教員が「教えこむ」ということがなくなり、生徒たちが「自分で考える」ということになります。そしてその答えは一つではないということです。

たとえば、国語の教科書の読解をするときに、「太郎は飼い犬のポチに、まるで兄弟に話しかけるように言いました。」という文があるとします。そして「この”まるで兄弟に話しかけるように”とはどういうことか、説明しなさいと」いうような問題があったら、我々が学生のときには「優しく」とか「親しく」とかいう答えでないと×にされましたよね?

ところがこれからの教育では、生徒が「”乱暴に”だと思う。だって僕のお兄ちゃんはいつも僕に四の字固めをかけていじめるんだ。」とか、「私のお姉ちゃんはときどき優しくしてくれるから”いつもは意地悪だけど珍しく親切に”だと思います。」とか、「僕には兄弟がいないからわかんない。」とか、そういう答えもアリにするというものです。びっくりですよね。

今までならこういうことを生徒が言うと、教員は間違いなく、「君のお兄ちゃんの話は聞いてないっての!」みたいに叱りましたよね。僕もやっちゃうと思います。なぜ教員はそんなことを言うかというと、それは教員自身が用意した答えに生徒を導こうとするから、話が逸れた場合には軌道修正をしようとするんですよね。

でもこれからの教育はそれではダメだということです。生徒自身の実際の体験に基づいて生徒自らに考えさえる。その方がずっと効率的だというのです。その証拠に上のような自分の兄弟姉妹の話が出て、その話に敢えて乗り、「じゃあ、意地悪とか乱暴とかいろいろ話が出たけど、その証拠となるような文を探してみようよ」と言うと、子供たちは自分の考えを立証するために必死に文を読み直すそうです。自分で必死に読めば、答えを聞くよりも後々まで残るというわけです。なるほどなぁ...

実際、すべてこういう風に進めることはできないと思いますが、このように生徒自身の考え方を活かした方が面白いし、こちらの想像もつかなかったような独創的なアイディアとかも出てくるかもしれないと思いました。難しいですが、少しでもそういうスタイルに近づけるように試行錯誤してみようと思います。

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